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2009年12月26日 (土)

中東欧旅行 第5日目 ウィーン・ブラチスラバ

 第5日目は、ウィーンを見てから夕方スロバキアの首都ブラチスラバを観光した。 今回の旅行地でつくづく思えたのは、神聖ローマ帝国が如何に素晴らしい組織であったかということ。 その息のかかった国々は文化が栄え、立派な城、建物、音楽、絵画などが残っている。 そこから外れたポーランドやユーゴは、今もって文化、観光、そして経済にめぐまれていないということだから。 今回の中東欧旅行では、神聖ローマ帝国で最初にローマ法王から戴冠したザクセンに行き、そしてオットー1世以降神聖ローマ帝国の中核都市になったプラハとウィーン行って、その思いをつよくしました。 

さて、ウィーンについても、はじめに少々ですがかじってみます。 ウィーンが本格的に発展したのは1155年バーベンベルク家がウィーンへやってきたところに起因する。 10年後の13世紀半ばまで存続したが、1278年にオーストリア公になったハプスブルク家の支配下に入る。 そして14世紀にハプルブルク家の下、建設公となったルドルフ4世がウィーンを大きく発展させた。 ウィーンのはなやかな歴史は、ハプスブルク家が最初の都ときめたことに始まった。 その後ハプスブルク家は婚姻政策の成功により、16世紀に入るとボヘミアやハンガリーの王国を相続し、神聖ローマ帝国の帝位を独占。 16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系帝国をつくるに至った。 ウィーンに本拠をおいてチェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、クロアチア、ネーデルランド(オランダ)、ベルギー、さらにはスペイン、フランス・イタリア南部を領有した。 16世紀に絶頂期を迎えたハプスブルク家でしたが、19世紀中ごろに衰退し帝國各地で独立要求の暴動がおき、第1次世界大戦で帝国も滅亡。 そのときはカール1世でしたが、実質的なラストエンペラーは大戦中に死亡したフランツ・ヨーゼフ(妻エリザベート)とも言われます。

では、はなやかなウィーンをこしらえた皇帝は誰だったのか。 Dscf0082  ラストエンペラー・フランツ・ヨーゼフも帝國分裂という最大危機を迎えてウィーンの大改造を決断、旧市街を囲んだ城壁を取り壊し、幅58mの大環状道路を作り、通りには市民のこころをつかもうとオペラ座や、ギリシャ風の国会議事堂を建設した。 またそれより遡ること200年前、1700年にはレオポルド1世がハプスブルク家の威光を示すために夏の離宮、バロック様式のシェーンブルン宮殿を作った。 その後半世紀して女帝マリア・テレジアが、この離宮に世界最古といわれる動物園を造ったり、建物の外装内装を黄金色黄色にして現在の絢爛たる姿にした。 シェーンブルン宮殿にはハプスブルク帝國の歴史が凝縮され、鮮やかに映し出されています。 テレジアもここで半年暮らし、アントワネットもここで育ったという。

シェーンブルン宮殿は1441部屋あって、内部では写真を撮れなかったが華麗なシャンデリア、大ギャラリー、うるし塗りの壁など見ごたえのあるものばかりでした。 裏には広大なお庭(東京ドーム2000個分)があって、日本風の庭園、ローマ風、温室、動物園ほかいろいろとあるそうです。

シェーンブルン宮殿の後、ベルベデーレ宮殿へ行った。Dscf0094  ベルベデーレ宮殿はバロック様式の宮殿で華やかである。 もともとハプスブルク家に仕えたブリッツ・オイゲンが夏の離宮として作ったもので、オイゲン死後1752年にマリア・テレジアに売却された。 オイゲン公はフランス・ルイ14世の子といわれ、長男でなかったので伯爵を継げず軍人となったが、フランス軍に用いられなかったのでフランス軍の宿敵、ハプスブルク家レオポルト1世に仕えた。 フランスと、またはハンガリーとの戦いに功をなし、オーストリア軍の有力な将軍のひとりとなった。 ベルベデーレとはラテン語で「美しい景色」という意味で、その名のとおり建物にも庭にもたくさんの彫刻があって綺麗であった。 ベルベデーレの庭も見かけシェーンブルンの庭のように広大で、これだけの広さの庭園2つを管理している観光オーストリアには感心させられた。

  2つの豪華宮殿観光の後、「リングシュトラーセ」と呼ばれる環状道路をひとDscf0104Dscf0105Photo 走り、国会議事堂、市庁舎、劇場、教会などを見た。 リングシュトラーセとは環状の大通りという意味だが、ここには古い建築様式の建物が多数立ち並ぶ。 国会議事堂(写真:円柱8本)は古典ギリシャ様式、ネオゴシックの市庁舎(写真:屋根に5つの塔)と奉納教会(写真:高い2つの塔)、ブルク劇場はルネッサンス様式等々古きものである。 

午後に1時間自由行動、ウィーンのメイン通りであるケルトナー通りを散策しDscf0108 た。 お土産やさんも立ち並んでおり少々仕入れ、カフェでザッハトルテを購入、そしてその先にあるシュテファン寺院へ行った。 シュテファン寺院はハプスブルクの創建者ルドルフ公やハプスブルク家代々の人たちの墓がある寺院で(12世紀に建立)、ゴシック建築で屋根がハプスブルク家の勢力下にあったハンガリーのマジャール模様になっている。 この寺院ではモーツァルトの結婚式や葬儀も行われたそうです。

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 ウィーンでの観光も3時近くになり、次の観光地ブラチスラバが暮れぬうちに着かねばとバスは急いだ。Dscf0123  その距離わずか65Km1時間少々で、薄暗くなりかけたところで到着できた。 スロバキアの首都というが、何もない田舎町という感じであった。 チェコとスロバキアは1つの国であったが、チェコとの差がかなりあったのであろう。 分かれたことが、なんとなく伺い知れる。  もともとスロバキアとチェコはどちらもスラブ系で言語も殆ど同じなのだが、両国は1000年にわたって別々の歴史を歩んできた。 スロバキアは長年ハンガリーの支配下、一方チェコは近世オーストリアに俗し栄えた。 第1次大戦後両国は独立国チェコスロバキアを形成し、社会主義国となっていったが、共産主義政権崩壊(ビロード革命)後に分裂してしまった。 工業国に農業国、文化・観光・慣習で異なった点が多いまま、完全な一国ではありませんでした。 スロバキア側は貧しいスロバキアへの経済投資を要求し、要求が認められなければ独立すると主張、一方チェコ側はスロバキアがスロバキアがいなくなれば有難いと考え、92年に分裂したとのことです。 スロバキアはこの先どうなるのでしょう、余計な心配をしました。

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